月刊フルコンタクトKARATE 第68号に田畑師範手記「大山倍逹総裁からの薫陶」第7弾「大山総裁の指導者論」編が寄稿されました!
ぜひ、カラテ修業に活かしてください。
指導者の条件③
武道カラテの持つ人間性 乾坤一擲の力
指導者は強ければ誰でもいいのか、というとそういう訳にはいかない。強さよりも人間性が問われることになるからだ。人を指導するという事は、人を律し、自分を律することにある。自分だけが良ければ、他人はどうなってもいい。という人間は、武道カラテをやる資格はない。人のために貢献したい、人のために尽くしてあげたいという人間でなければ指導者の資格はない。
この場合、強いとか、弱いとかは関係ない。人間性の方が大事なのである。同じ支部長でも、素晴らしい支部長は人間性が豊かである。自分のことだけしか考えない支部長では、自分の組織しかわからない。だから友人もないし、信望もないという事になる。そういう指導者はいくら強くとも、良い指導者とは言えない。
指導者の条件④
支部設立を認可するにあたって最も重視している点は、実技面よりはむしろ「指導者」としての人格的な適否である。道場は、人を叩く技術だけを教える場ではない。技術を考えることも大事だが、それ以上に要求されるのは「闘わずして勝つ心」を考えることである。武人の心得として「刀を抜く時は、大義名分の立つ時に抜け」と教えた。指導者として心得ておくべきことは「大義名分とは何か」について門下生に誤った認識を持たせてはならないという事である。それは偏に指導者の人格的な問題に関わってくることでもある。「強く」なり、尚且つ「闘わずして勝つ心」を教える。総本部道場に対する「指導法」の一例として、重要なことは、侍は常に刀を磨いておくけれども、それを抜かないところに侍の価値がある。刀を抜かないようにするためには、少々のことは我慢して、こちらから「許して下さい。スミマセン。」と言って頭を下げるのが一番良い。相手が許してくれるものであれば頭を下げる。これが闘わないで勝つ最善の方法である。ただし、どうしても許してくれず、わが身が危なくなって、いったん刀を抜いた以上は、一刀両断のもとにこれを斬り捨てる。これが侍の大義名分であり、覇気である。いくらカラテの技術に長けていても、人間として尊敬に値する人物でなければ、門下生はその指導者には付いていかない。また「強さ」の証明なくしては、道場で門下生を指導することは出来ない。道場を存続させるためには、経営的手腕も支部長(指導者)には要求されることになるだろう。人格的に優れているかどうか。実技面において門下生を指導するに足るだけの技術を身に付けているか。道場生を集め、支部を運営していくだけの経営能力はあるか。この三つの条件を備え持っていると判断された者に対してのみ、極真会館会員を指導する「指導者」としての権限を与えることにしている。支部長(指導者)は極真精神である「頭は低く、目は高く、口慎んで、心広く。孝を原点として他を益す。」の大山総裁の精神を伝える。極真カラテを永劫不滅にするべく、相互理解と協力を惜しまない。そして道場の指導方法は基本、型を本部と統一し、極真カラテの理念に基づき、武道カラテの神髄を求め、精神教育としての価値を有するものである。
この地球は子供たちに借りたものとすれば、極真カラテを未来永劫の武道にするために、極真会館の支部長、門弟諸君には、極真精神を以って一人でも多くの人々に、安らぎを与え得る、きれいな地球にして、未来の子供たちに渡してもらいたいと願う。
「座右の銘十一か条」
大山総裁は座右の銘十一ヶ条を作成し、ご自分のお心の戒めにしておりました。
「一、武の道は礼によってはじまり礼によっておわる。よって常に礼を正しくせよ」
空手の道も人生すべても戦いであり、真剣勝負である。だからなお人としての礼儀を尊ばねばならない。
近ごろ、この礼儀がすたれゆく風潮が、なげかわしいかぎりなのは、それは人が戦いのキバをむくだけの野獣になりさがることを意味するからである。
「二、武の道の探求は断崖をよじ登るがごとし。休むことなく精進せよ」
けわしい断崖をよじ登るとき、ちょっとでも気をぬけば、たちまち、もとのもくあみにずり落ちてしまう。空手の道も人生も、すべてしかり。
「三、武の道においてはすべてに先手あり。しかれども私闘なし」
よくいわれる「空手に先手なし」などという、きれいごとを私は信じない。勝つためには、すべてに先手をとるべし。しかし、その動機が、みにくい私利私欲であってはならぬ。
「四、武の道においても金銭は貴いものなり。しかれども執着すべからず」
私はびんぼうなので、もっと設備のいい道場で弟子を育成するため金がほしい、と世間なみにねがっている。が、金を第一義とし、こだわりはしない。
「五、武の道は姿なり。何事においても常に姿を正しくすべし」
姿とはズバリ身体の姿勢でもあり、また精神の正しいありかたでもある。
くずれた行儀のわるい姿勢に、すぐれた心技の宿るはずはなく、すなわち健全な精神は健全な肉体に宿るのである。
「六、武の道においては千日を初心とし、万日の稽古をもって極とする」
俗に「石の上にも三年」というが、私は「石上十年」と、かってに改めている。千日、たかが三年ぐらいでは何事も初等科にすぎず、十年でどうにか半人前。
わたしは九歳のときから空手歴四十年。万日をこえ、ようやく空手がわかってきた。
「七、武の道における自己反省は常に練達への機会なり」
これでいいのだ、と思いあがったとき何事も、そこで進歩はとまる。反省すべき点がないのは神であって、人間なら永久に欠点はある。
反省こそが上達、成長への最大のカギだ。
「八、武の道は宇のためにあるものなり。修練によって私心を忘れるべし」
おのれの修業も進歩も、その究極において、世のため、人のため、大宇宙もろもろの利益につながらねばならない。
私の門下生にも、よくある例だが、ケンカに強くなって他人をやっつけようなどは下の下もきわまれり。
「九、武の道においては点を起とし、円を終とす。線はこれに付随するものなり」
私が半生ただ一度だけ負けた香港の拳法家・陳老人の神技は、すべて静かにおだやかな点と円の動きから成立していた。
わかき日の私は、これに対し、がむしゃらな直線の猛攻をかけ、ひっそりした点をつかまえきれず、それが円に展開する中に封じこめられてしまった。
円満こそは真の強大なのだ。
「十、武の道において真の極意は体験のみにある。よって体験を恐るべからず」
実戦の体験もなく、たんに口先の理論ばかり立派な空手家を私は信用せぬ(このタイプが多すぎるのだが……)。
地上最強と自負する大山空手が今日あるのは、わかき日の私が世界中の格闘技と数百たびの真剣勝負を演じた体験ゆえ。
男なら口先でなく、現実の行動、すなわちボディでものをいえ-である。
「十一、武の道においては信頼と感謝は常に豊かなる収穫を得ることを忘れるべからず」
私は敵でさえも、それがすぐれた敵であれば、かれを信じ感謝する流儀である。かれの存在あればこそ、それを克服せんがため、私の努力と進歩もあるからだ。ましてや自分をもりたててくれる人たちには、かりそめにも信頼と感謝を忘れることあれば、その人間はイヌにもおとる。
そして-この十一か条の集大成が、私の生涯をつらぬく信念、
「正義なき力は無能なり!
力なき正義も無能なり!」
と、すなわち、こうなるのです。
せめて極真会館の指導的立場にある方は、道場訓と座右の銘は暗唱音読され、それを実践し自分を修め、人を治める、修行、修養が大切だと思います。