大山倍逹総裁からのメッセージ
「師は自ら体を動かす」
師というものの重要性、師たるものの在り方は、人に教える立場に立ってみて初めてわかる。
師たるものの役目は、言うまでもなく門弟たちの鏡になり、彼らを指導することにある。しかも、より正しく、より良き指導を要求される。特に初心者に対しては、その責任が最大限に膨張する。それはカラテ、柔道、剣道といった武道だけに限らず、何事もまず、基本を正しく教える必要がある。
指導者たる師は、己の経験を通して得たものを伝え授けることこそ、その職分である。そのためには、師は豊富な経験と優れた実績を持ってなければならない。
道場の乱立は師範の濫造につながる。ほんの少しカラテをやったからといって道場を開く人。また段を取って黒帯を締めたからといって師となる人、子を強くさせたいだけのにわか指導者、ただ自分流儀を主張するだけで、大会に出た経験も、武道修業をした経験も、他流試合の経験もない人たち、そういった人たちが師範として初心者、門弟たちを指導する立場に立つのだ。
経験を豊富にし、知識を得、それを具備する為にも指導者たちは日々研鑽に努め、日ごろの自分を高めるためにたくさんの事を吸収していかねばならない。従って教えることイコール学んでいかなくてはいけない。指導すること、自分を鍛えることだけにとどまらず、自ら学んで成長していくことが大切なこと。
しかし、最近は自分の門弟たちの指導に力を入れるより、自分の名誉や財欲に執念を燃やしている人が少なくない。強い選手を育成することは、確かに必要なことだが、強い選手を売り物にして、人を集めるのは良くない。この世の中、全てカネ。カネより強いものはないという風潮が大勢を占してしまった。
どこかおかしくなった、この世の中では、何ごとによらず。正しい指導をする人、正しい指導が出来る人を待望する。人の上に立って指導する人たちは、己の姿を見つめ、たくさんの経験を得、次代の師を養成していかなくてはならない。なんでも自分でやってみなければだめだ。自分がやってもいないのに、人がどうだこうだといっても、全く説得力がない。
まず自分の体を動かして、どれだけ辛いか、辛くないか、どれだけ気を使うか、使わないのかということを確かめた上で、人に教えなければならない。それで初めて「師」と言えるのではないだろうか。